こなごころ

きもちをつづるばしょ

こころこわれる

祖父は真面目でしっかりした人だった。

祖母は世話焼きの優しい人だった。

 

子供の頃、仏壇の前で祖父の膝の上に座ってお経を聞いていた。

全然分からなかったけれど、お経の最後に仏壇の鐘を鳴らすのが楽しかった。

 

たまに、テレビを見ながら祖父に肩叩きをしてあげていた。

お小遣いに10円を貰って、それをこつこつ貯めていた。

 

今でもそうだが、俺はお金には執着が無いにもかかわらず、貯金するのが好きだ。

俺にとって、それが頑張った証だったから。

 

祖母は俺を連れて、近所をよく散歩してくれた。

近所のお婆さんには、会うたびに「可愛い」だの「また大きくなった」だのと言われ、人見知りの俺はいつも恥ずかしがって祖母の後ろに隠れた。

 

俺は当時は泣き虫だったから、姉にいじめられてよく泣いていた。

祖母はいつも俺を庇ってくれた。

 

 

 

祖父は定年後、畑仕事をしていた。

実家の所有する土地には飛び地があり、祖父は畑の手入れをしに、時々農作業用の軽トラを運転することがあった。

 

ある日、祖父は軽トラのバッテリーをあげてしまった。

ライトを消し忘れてしまったせいだ。

それが二度、三度と続いた。

 

歳が歳だし、物忘れがひどくなってしまったのだろう。

畑のことは諦め、人様に迷惑をかける前に父は祖父の免許を返納させた。

 

ある日、祖父はコピー機を使って何かを印刷しようとしていた。

少し離れて観察してみると、コピー機から出てきているのは真っ白な印刷用紙ばかりだった。

どうやら、コピー機の使い方を忘れてしまったらしい。

それに気付いた祖母が声をかけると、祖父は少し声を荒らげ、印刷を諦めた。

 

家族が共有で使っているペンやハサミが無くなることがあった。

決まって祖父の部屋で見つかった。

こっそり元に戻しておいても、またいつの間にか祖父の部屋に移動していた。

 

たまに新聞が切り抜きされていることがあった。

それも古新聞ではなく、当日の新聞だ。

祖父は新聞の中に自分の名前と同じ文字を見つけると、その周辺の記事を切り取っていた。

自分に関係する記事だと思っていたようだ。

 

 

 

いつからか、祖父は家族を名前で呼ばなくなった。

祖父が祖母を呼ぶときは「おい!」と、祖母に声をかけられたときは「なんや!」と怒鳴った。

 

祖父は思うように言葉が出なくなり、「あれ」を多用するようになった。

祖母は祖父が何を言いたいのか理解できず、二人はよく喧嘩するようになった。

俺が止めようとしても、二人ともまったく聞く耳を持たなかった。

 

俺は祖父母にはなるべく関わらないようにした。

当時高校生だった俺は、勉強のストレス、部活のストレス、否応なしにくる反抗期のストレスに、祖父母に対するストレスまで抱えきれなかった。

 

俺は祖父に対しては無視を決め込んだ。

どうせ会話が成り立たないのだから、下手に応答したってこじれると思ったからだ。

 

 

 

ある日、祖母がガンで入院した。

すでに末期ガンで余命は半年ほどらしいと、父から聞かされた。

そのことは祖母自身には知らされなかった。

 

入院中、祖母はよく「帰りたい」と嘆いていた。

 

俺は母や姉に連れられて何度か見舞いに行ったが、祖母が痩せ細っているのは目に見えて分かった。

やがて身体もほとんど動かせなくなったが、声をかけたり手を握ったりすると、か細い声で返事をしたり頷いたりしてくれた。

 

祖父は時々、家の中で祖母を探し回るようになった。

深夜に徘徊することもあった。

 

祖父は鏡に向かって話しかけるようになった。

祖父の機嫌が悪い時は、鏡と喧嘩していた。

 

 

 

ある日、祖父は行方不明になった。

家族総出で探し回り、俺は家で留守番した。

 

俺がボソッと「あんな奴、帰ってこなくてもいいのに」と呟くと、姉に叱られた。

姉貴は嫁いでからは普段実家にいないくせに、よく偉そうなことが言えたものだ、と思った。

 

警察や町の人の協力もあり、家から1kmほど離れたところで見つかった。

それからは、常に玄関には鍵がかけられるようになった。

 

祖父はアルツハイマー認知症だった。

それでも、この時点では要介護認定を申請しても軽度と判定され、デイサービス等も受けられなかった。

 

 

 

祖父はあまり怒らなくなった。

というより、皆が怒らせないように気を遣うようになった。

 

祖父は自分で服を着られなくなった。

シャツを足に穿き、ズボンに腕を通そうとしていた。

 

母が着替えを介護するようになった。

 

祖父は自分でご飯が食べられなくなった。

箸の使い方が分からなくなったのだ。

 

母が食事を介護するようになった。

 

祖父は自分で用が足せなくなった。

朝になると家中に糞尿が垂れ流されていることもあった。

 

母がトイレを介護するようになった。

 

 

 

祖父はもう、家族が家族であるということなど理解できていなかった。

 

俺は祖父のことを「糞を製造するだけの動く肉塊」と認識するようしていた。

そうでもしなければ堪えられなかった。

 

自分の心が壊れているのを感じた。

それでも、人を殺すより、自分が死ぬより、マシだと思った。

 

いずれ俺より先に死ぬのだから、その時を待てばいい。

時間が解決してくれる。

それだけが支えだった。

 

母もそうだったのかもしれない。

母は毎日のように愚痴をこぼし、一人の時には大声で叫ぶこともあった。

いつか母が倒れてしまうのではないかと思えた。

  

俺はこの時大学生だったが、わざわざ片道2時間半もかけて実家から通学していた。

俺がそんなことをしていたのは、母の愚痴を聞くためというのが理由の一つにある。

母の苦労を理解してやれるのは、俺しかいなかったからだ。

 

再び要介護認定を申請すると、ようやく認定がおりた。

週に1~3日程度だが、デイサービスも受けられるようになった。

 

祖父は嫌がることなくデイサービスに行った。

仕事に行くような感覚だったのかもしれない。

 

 

 

ある日、祖母が亡くなった。

余命宣告は半年だったが、実際は1年ほどだった。

 

その日は雨だった。

 

俺は病院へ向かう車の中で、大学に忌引き届を出さないといけないことばかり考えていた。

 

病室に入ると、叔母と従兄と姉が大泣きしていた。

俺は居心地の悪さを感じて、ベッドに横たわる祖母の遺体を一瞥しただけですぐに病室を出た。

 

父と母は病室の外で静かに涙を流していた。

俺は病院の駐車場に降りしきる雨をぼーっと眺めていた。

 

俺が泣くことはなかった。

我慢していたわけではない。

むしろ、少し肩の荷が下りたようにすら感じた。

 

 

 

祖母の葬式の日、祖父はニコニコしていた。

とても無邪気な笑顔だった。

 

祖父は叔母に連れられて、棺の中の祖母の顔を見た。

叔母が「ほら、かあさんよ」と言うと、祖父はそのままの表情でよだれを垂らしてしまった。

「ああ、こいつはもう人間じゃないんだな」と改めて感じた。

 

ここでも、俺が泣くことはなかった。

 

 

 

ある日、祖父が入院した。

 

それから俺が次に祖父を見たのは、祖父の通夜の日だった。

入院してから間もなく亡くなったのだ。

葬儀は祖母の時と同じ葬儀場で行われた。

 

祖父が軽トラのバッテリーをあげてしまったあの時から、もう10年が経過していた。

 

ようやく解放された。

嬉しかった。

文字通り、飛んで跳ねて喜んだ。

人生で最も嬉しかったと言っても過言ではないかもしれない。

 

それからの俺は、壊れた心の隙間を埋めるように人生を楽しんでいる。